「とするならば、いま菩提心をおこす者は、かならず祖師の正伝するところを受けねばならない。かくすれば、われらはただに遇い難い仏法に遇いたてまつるのみならず、また、仏の袈裟を正伝する仏弟子として、これを見聞し、学習し、受持することをうるのであって、それはとりも直さず、如来を見たてまつることであり、仏の説法を聞くことであり、仏の光明に照らされることであり、あるいは、仏の受用せしところを受用するのであり、仏の心をじきじきに伝授することであり、仏の髄をわがものとすることであり、さらにいうなれば、釈迦牟尼仏の袈裟をもって覆われることであり、釈迦牟尼仏がまのあたりにして袈裟をわれらに授けたまうのである。すなわち、われらは仏にしたかいたてまつり、仏より袈裟を頂戴したてまつるのである。」(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)

原文「菩提心をおこさんともがら、かならず祖師の正伝を伝授すべし。われらあひがたき仏法にあふたてまつるのみにあらず、仏袈裟正伝の法孫として、これを見聞し、学習し、受持することをえたり。すなはちこれ如来をみたてまつるなり。仏説法をきくなり、仏光明にてらさるるなり、仏受用を受用するなり。仏心を単伝するなり、仏髄をえたるなり。まのあたり釈迦牟尼仏の袈裟におほはれたてまつるなり。釈迦牟尼仏まのあたりわれに袈裟をさづけましますなり。ほとけにしたがふたてまつりて、この袈裟をうけたてまつれり。」