「この蓮華色比丘尼が、ついに聖者の境地にいたりえた最初の因縁はほかでもない。それはだ戯れに袈裟を身にまとうたことによるのである。そして、次の生には、迦葉仏の法に遇うことをえて比丘尼となり、さらに次の生には、釈迦牟尼仏に遇いたてまつって聖者となり、三明・六通をその身に具えるにいたった。三明とは、天眼通・宿命通・漏尽通であり、六通とは、それに神足通・他心通・天耳通を加えていう。思うに、ただ悪をなす人であった時には、儚いかな、ただ死して地獄に入り、地獄より出でてまた悪をなす人であった。しかるに、戒の因縁があると、たとい戒を破って地獄におちても、やがてはついに得道することとなる。いまかの比丘尼は、ただ戯れに袈裟をつけたのみで、なお三生を経て道を得ることができたという。ましてや、淨らかな信心をおこし、最高の智慧を求めようとして袈裟をつける。その功徳の果を結ばないことがありえようか。ましていわんや、生涯袈裟を受持し頂戴する功徳は、まさに広大にして無量のものであろう。」(道元:正法眼蔵・正法眼蔵・袈裟功徳)

原文「この蓮華色比丘尼、阿羅漢道の初因、さらに他の功にあらず。ただこれ袈裟を戯笑のためにその身に著せし功徳によりて、いの得道せり。二生に迦葉仏の法あふたてまつりてに比丘尼となり、三生に釈迦牟尼仏にあふたてまつりて大阿羅漢となり、三明・六通を具足せり。三明とは、天眼・宿命・漏尽なり。六通とは、神境通・他心通・天眼通・天耳通・宿命通・漏尽通なり。まことにそりれ、ただ作悪人とありしときは、むなしく死して地獄にいる。地獄よりいで、また作悪人となる。戒の因縁あるときは、禁戒を破して地獄におちたりといへども、つひに得道の因縁なり。いま戯笑のた袈裟を著せる、なほこれ三生に得道す。いはんや、無上菩提のために清浄の信心をおこして袈裟を著賤、その功徳、成就せざらめやは。いかにいはんや一生のあひた受持したてまつり、頂戴してたてまつらん功徳、まさに広大無量なるべし。」