「もしも菩提心をおこしたならば、いそぎ袈裟を受持するがよい。このよき世に遇うて仏種を植えなかったならば、悲しむべきことであろう。この世界に人間として生まれ、釈迦牟尼仏の教法に遇い、さらに仏の法を嗣ぐ祖師たちに生まれおうて、じきじきにこの袈裟を受くべきところを、迂闊にしてその機会をとり頓しては、まったく悲しいことではないか。その袈裟の伝承は、ただひとり祖師たちの伝うるものが正しい系譜だあって、他の師たちのそれと比べものにならない。他の師によって袈裟を受けても、その功徳はなおはなはだ大きい。ましてや、出し委系譜によって直々に伝え来った師によって受けたならば、まさしく如来の教法の子であり孫であって、まさに如来の皮肉骨髄を正伝するものであろう。そもそも袈裟は、三世十方の諸仏が正伝していまだ断絶せず、三世十方の諸仏・菩薩・声聞・縁覚がひとしく護持し来ったものなのである。」(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
「もしも菩提心をおこさん人、いそぎ袈裟を受持頂戴すべし。この好世にあうて仏種をうゑざらん、かなしむべし。南州の人身をうけて、釈迦牟尼仏の法にあふたてまつり、仏法嫡嫡の祖師にうまれあひ、単伝直指の袈裟をうけたてまつりぬべきを、むなしくすごさん、かなしむべし。いま袈裟正伝は、ひとり祖師正伝にこれ正嫡なり、余師のかたをひとしくすべきにあらず。相承なき師にしたがうて袈裟を受持する、なほ功徳甚深なり。いはんや嫡嫡面授しきたれる正師に受持せん、まさしき如来の法子法孫ならん、まことに如来の皮肉骨髄を正伝せるなるべし。おほよそ袈裟は、三世十方の諸仏正伝しきたれること、いまだ断絶せず。十方三世の諸仏菩薩・声聞縁覚、おなじく護持しきたれるところなり。」