「いったい、人寿に八万歳より百歳にいたるまでの増減があったといい、その増減にしたがって、その身長にもまた長短があったという。また、八万歳と百歳とでは、その身長はちがうという説があり、等しいという説がある。その両説のなかでは,等しいというのが正伝である。また仏と人とでは、その身長のこともまったく異なるのであって、人の身長は量ることができるが、仏の身長はとても量ることができない。だから、迦葉仏の袈裟を弥勒仏が著けても、長くも広いくもなく、釈迦牟尼仏の袈裟を弥勒仏がつけても、短く裳なく狭くもない。仏身が長短がにかかわらぬことを、はっきりと承知しておくがよい。梵王はこの物の世界のはるか高きにあるから、その頭頂はみることをえない。 目犍連ははるか光明幡世界にまでいったが、なお仏の声を突きとめることができなかったとう。その声には遠近がなかったからであるという。まことに不思議なことである。そして、如来のすべての功徳も、またそのようである。そのことをじっと思いめぐらしてみるんがよい。」 (道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
原文「おほよそ、八万歳より百歳にいたるまで、寿命りの増減にしたがうて、身長の長短あり。八万歳と一百歳と、ことなることがありといふ。また平等なるべしといふ。その中に平等なるべしといふを正伝とせり。仏と人と、身量はるかにことなり。人身ははかりつべし。仏身はつひにはかるべからず。このゆゑに、迦葉仏の毛麤、いま釈迦牟尼仏著しましますに、長きにあらず、ひろきにあらず。いま釈迦牟尼仏の袈裟弥勒如来著しましますに、みじかきにあらず、せばきにあらず。仏身の長短にあらざる道理、あきらかに観見し、決断し、照了し、警察すべきなり。梵王のたかく色界にある。その仏頂をみたてまつらず。目連はるかに光明幡世界にいたる。その仏声をきはめず。遠近の見聞ひとし、まことに不可思議なるものなり。如来の一切の功徳もみなかくのごとし。その功徳を念じたてまつるべし。」