「わが国では、聖徳太子が袈裟を所持し、法華・勝鬘等の諸経を講ぜられた時には、天より宝華がふるという奇瑞があった。それより以後、わが国にも仏法がこひろまった。太子は天下の摂政であったが、また人天の導師であって、仏のつかいとして衆生の父母となった。いまわが国では、袈裟の材料・色彩・寸法など、いろいろの謬りがあるとはいえ、ともあれ袈裟ということばを聞くことができるのは、ひとえに聖徳太子のちからによるものである。かの時に太子が邪をしりぞけ正をたてられなかったならぱ、いまこの国はあわれな有様であるにちがいない。その後にも、聖武天皇がまた、袈裟を受持し、菩薩戒をううけたもうた。そのように、たとい帝位らあっても、いそぎ袈裟をもち、菩薩戒をうけるがよいのである。人間のさいわいは、これに過ぐるものはありえないからである。(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
原文「日本国には、聖徳太子、袈裟を受持し、法華・勝鬘等の諸経講説のとき、天雨宝華の奇瑞を感得す。それわよりこのかた、仏法わがくにに流通せり。天下の摂籙なりといへども、すなはち人天の導師なり。ほとけのつかひとして、衆生の父母なり。いまわがくに、けさの体色量ともに訛謬せりといへども、袈裟の名字を見聞する、ただこれ証得対の御ちからなり。そのとき、邪をくだき正をたてずば、今日かなしむべし。のとに聖武皇帝、また袈裟を受持し、菩薩戒をうけまします。いしかあればすなはち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、いそぎ袈裟を受持し、菩薩戒をうくべし。人身の慶幸、これよりもすぐれたるあるべからず。」