「ある者はいう。「在家の受持する袈裟は、一に単縫となづけ、二には俗服となづく。すなわち、刺し子をも用いずして縫う4のである。」また、いう。在家が道場におもむく時には、三つの法衣と楊枝と澡水と食器と坐具を容易して、まさに比丘のごとくにして淨行を修するがよい。」古徳の伝えるところはかようである。ただし、いま仏祖のじきじきに伝えるところでは、国王・大臣・居士・士民にさずける袈裟もみな刺し子である。六祖慧能が行者にして仏の袈裟を正伝したのはそのような範例である。いったい、袈裟は仏弟子たることのしるしである。もしすでに袈裟を受持したならば、毎日これを頂いて拝するがよい。これを頭のうえにおいて頂いて、合掌してつぎのような偈を誦するのである。大なるかな、解脱の服、無相にして福田の衣なり、如来の教えを披き奉じて、ひろくもろもろの衆を度せん」そして、それから着用するのである。袈裟を師とも思い、先仏の塔とも思うがよい。また、袈裟を洗ってから頂戴する時にも、この偈を誦するがよい。」(道元:正法眼蔵・袈裟功徳)
原文「有言、「在家受持袈裟、一名単縫、二名賊服。乃未用却刺而縫也」又言、「在家趣道場時、具三法衣・楊枝、澡水・食器・坐具、応如比丘修行淨」古徳の相伝かくごとし。ただしいま仏祖単伝しきたれると 光土ころ、国王・大臣・居士・士民にさずくる袈裟、みな却刺なり。蘆行者すでに仏袈裟を正伝せり、勝躅なり。おほよそ袈裟は、仏弟子の標幟なり。もし袈裟を受持しをはりなば、毎日に頂戴したてまつるべし。頂上に安じて、合掌してこの偈を誦す。「大哉解脱服 無相福田衣 被奉如来教 広度諸衆生」しこうしてのち著すべし。袈裟におきては、師想・塔想をなすべし。浣衣頂戴のときも、この偈を誦すべし」