「袈裟についての体験」「以前わたしが宗にあって、大衆の席に坐して修行して折った頃のこと、ふと都なりの席の僧を見ると、彼は毎朝の起床にあたり、まず袈裟をささげて頭上に安じ、合掌して一偈を黙誦していた。その偈はこうであった「大いなる哉、解脱の服、無相にして福田の衣なり、如来の教えを披き奉じて、ひろく諸々の衆生を度せん」その時私は、いまだかってない思いを生じ、歓喜が身にあふれ、感激の涙がしきりに落ちて、衣の襟をぬらした。そのゆえは、かって「阿含経」披見したとき、袈裟を頂戴するの文を身たことがあるけれじも、その作法がどのようなものかは、なお明らかには知らなかった。しかるに、いまその作法を目のあたりに見て、歓びに堪えず、ひそかに思ったことである。あわれ郷土にありしころには、教えてくれる師匠もなく、勧めてくれる善き友もなく、おおくの年月をいたずらに過ごしてきた。まことに惜しいこと、悲しいことであった。しかるに、しいまこれを見聞することを得たのは、まことに歓ぶべき宿善というものであろう。もしも、あのまま郷土にとどまっていたならば、、とても隣の席に、まさしく仏衣を相承し着用する僧宝を見ることはできなかったであろう。そう思うと、悲喜こもごもにいたって、しきりに感激の涙額が下ったのである。」
原文「予,在宗のそのかみ、長連牀に功夫せしとき、齊肩の隣単をみるに、開静のときごとに、袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬し、一偈を黙誦す。その偈にいはく、「大哉解脱服 無相福田衣 披奉如来教 広度諸衆生」ときに予、未曾有のおもひを生じ、歓喜身に余り、感涙ひそかにおちて衣襟をひたす。その旨趣は、そのかみ阿含経を披閲せしとき、頂戴袈裟の文をみるといへども、その儀則いまだあきらめず、いままのあたりにみる。歓喜随喜し、ひそかにおもはく、あはれむべし、郷土にありしとき、をしふる師匠なし、すすむる善友あらず。いくばくかいたずらにすぐる光陰ををしまざる。かなしまざらめやは。いまの見聞するところ、宿善よろこぶべし。もしいたずらに郷間にあらば、いかでかまさしく仏衣を相承著用せる僧宝に隣肩することをえん。悲喜ひとかたならず、感涙千万行く。」
長連牀とは禅院の僧堂にあって、大衆の座泉する坐床をいう。隣単とは、単とは禅院にあって人名をしるした紙票をいう。かくて僧堂における坐席を単位という。その席の上にその名をしるした単か付せられてあるからである。ここでは、道元の隣の席の僧をいう。開静とは、禅院にあって早朝の起床にあたって木板を鳴らすことをいう。