「宋国の嘉定十七年の冬十月中のこと、高麗の僧二人が慶元府にやってきた.一人は智玄、一人は景雲といった。その二人は、しきりに経典の文意を語っていたが、さらに文章の人でもあった。だがしかし、袈裟もまく鉢もなく、俗人に異ならなかった。かわいそうに、比丘の姿はしていても、比丘の法がととのわなかったからである。辺地の小国のしからしめるところであろう。わが国の比丘の姿をしている人々も、他国にゆけばまたかの二人にひとしいであろう。」

原文「大宗嘉定十七年癸未十月中に、高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。この二人、しきりに仏経の義を段ずといへども、さらに文学の士なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のことし。あはれむべし、比丘形なりといへども、比丘法なし。小国辺地しかあらしむるならん。日本国の比丘形のともがら、他国にゆかんとき、またかの智玄等にひとしからん。」

文学の士とは、文字の士ともいうのか。つまり経の文とその義を学ぶのみの者であって如何にして行じ、如何にして生きるかを未だ知らないからである。