「思うに、古より、四句の偈を聞いて得道したものがあり、あるいは、一句をきいて悟った者もあるという。四句の偈や一句のことばに、どうしてそんな霊験があるのだろうか。それは仏法であるからである。いま糞掃衣、ならびにさまざまの衣は、まさしく仏法によって正伝されたものである。四句の偈におとれる筈はなく、一句の教えよりも霊験あらたかであろう。だからこそ、二千年余のこのかた、その機根はいかがともあれ、仏にしたがって学ばんとする者は、みな袈裟を大事にしその身心としてきたのである。諸仏の説きたもう正法を知らぬ者だけが、袈裟を尊重しないのである。帝釈天や龍王などは、いずれも在家の天主なのであるが、龍王でさえも袈裟を大事にしたという。それなのに、すでに頭を剃り、仏子と称する者が、袈裟については、それを受持すべきものとも知らない。ましてや、その材料も色彩も寸法もしろう筈はなく、ましてや、その著用の仕方をしろう筈もない。さらには、その作法のごときは、いまだ夢にも見ないとひころである。」

原文「しるべし、四句偈をきくに得道す、一句子をきくに得道す。四句偈および一句子、なにとかして恁麼の霊験ある、いはゆる仏法なるによりてなり。いま一頂衣・九品衣、まさしく仏法より正伝せり。四句偈より劣なるべからず。一句法よりも験なかるべからず。のゆゑに、二千年余年このかた、信行・法行の諸機、ともに随仏学者みな袈裟を護持して身心とせるものなり。諸仏の正法にくらきたぐひは、袈裟を崇重(そうちょう)せざるなり。いま釈提桓因(しゃくだいかんいん)および阿那跋達多龍王(あなばだったりゅうおう)等、ともに在家の天主なりといへども、袈裟を護持せり。しかるに、剃頭(ていず)のたぐひ、仏子と称するともがら、袈裟におきては、受持すべきものとしらず。いはんや体・色・量をしらんや、いはんや著用の法をしらんや。しはんやその威儀、ゆめにもいまだみざるところなり。」

四句偈:経典の韻文には四句よりなるものが多い。去去では諸行無常の偈をさしているのか。一頂衣・九品衣:一頂衣とは糞掃衣をいう・九品衣とは九条より二十五条にいたる諸種の袈裟衣をいう。