「仏衣の種類1」「後韓の明帝の永平年間このかた、西の方天竺より中国にきたる僧は、陸続として跡をたたなかった。中国から印度に赴いた僧もときどきあったが、誰にあって仏法を受けたといったものはない。ただ徒に論師や三蔵の学者について学んだ見聞のみであった。文字や理論のことのみであって、直々に仏法を伝授されたのではない。だから、仏衣の正伝することにも言及してはいない。仏法を正伝した人に遇ったともいわず、仏衣を伝える人を見たと語るものはない。それでは仏教の奥堂(おうどう)には入らなかったことがわかるではないか。そのような輩は、仏衣をただ衣服とのみ思って、仏法の尊重するところだとは知らないのである。まったく憐れなことである。仏の法蔵を相承する正しい嗣ぎ手には、また仏衣も相伝するのである。法蔵を相承する祖師たちが、また仏衣のことをよく知っていることは、世のあまねく知るところである。だから、祖師たちはまた、仏衣の布在も色彩も寸法も正しく伝えきたり、正しく見聞しきたり、その大いなる功徳をも伝えきたり、その身心骨髄をも伝えきたったのであって、それは、まさに仏法を正伝しきたった者にのみできることなのである。もろもろの小乗の徒のしらざるところである。自分の今の考え方によって立つなどというのは、正しい相伝でもなく、正しい法の嗣ぎ手でもない。」(道元:正法眼蔵)

原文「後韓の孝明皇帝永平年中よりこのかた、西天より東地に来到する僧侶、くびすをつぎてたえず。震旦より印度におもむく僧侶、ままにきこゆれども、たれ人にあひて仏法を面授せりけるといはず、ただいたずらに論師およぴ三蔵の学者に習学せる名相のもなり。仏法の正嫡をきかず。このゆゑに、仏法なりとしらず。まことにあはれむべし正伝すべきといひつたへるにもおよばず、仏法正伝 せりける人にあひあふといはず、伝衣の人を見聞すとかたらず。はかりしりぬ、仏家の閫奥(こんおう)にいらざりけるといふことを。 これらのたぐひは、ひとへに衣服とのみ認じて、仏法の尊重なりとしらず。まことにあはれむべし。仏法蔵相伝の正嫡に、仏衣も相伝相承するなり。法蔵正伝の祖師は、仏衣を見聞せざるなまむねは、人中天上あまねくしれるところなり。しかあればすなはち、仏袈裟の体・色・量を正伝しきたり。正見聞しきたり。仏袈裟の大功徳を正伝し、仏袈裟の身心骨髄を正伝せること。ただまさに正伝の家業のみなり。みもろもろの阿笈摩教の家風には、しらざるところなり。おのおの今案に自立せるは、正伝にあらず、正嫡にあらず。」