「袈裟の着方3」「そのゆえに、祖師が渡来のこのかた、唐より宗にいたる数百年のあいだには、経を講ずる学者にして、おのれのわざを反省した者もすくなくなく、また、教家や律宗のものにして、それまで着なれた袈裟を投げすてて、仏経に正しく伝えられた袈裟を受けた者もある。そのような物語は、「伝灯録」「広灯録」「続灯録」普灯録」などに記されている。そのようにして、教法だ戒律だという狭い量見をぬけだして、仏祖正伝の大道に帰することをえたものは、またみな仏祖となることをえたのである。いまの人もその昔の祖師方を学がよい。袈裟を受持するならば正伝の袈裟を受けるがよい。にせものの袈裟を受持してはならぬ。その正伝の袈裟とは、いまいうところの達磨大師・曹谿大師の正伝せるもののことであって、それは如来よりまっすぐに相承して、一代も欠くるところはない。そのゆえに、その修行は正しく受領せられ、仏衣は親しく受け嗣がれたのである。仏の道は仏の道にただしく伝えられて、閑人の伝えうるところではないのである。(道元:正法眼蔵)

原文「このゆゑに、祖師西来よりこのかた、大唐り大宗にいたる数百歳のあひだ、講経の達者、おのれが業を見徹せるものもおほく、教家律等のともがら、仏法にいるとき、従来旧巣のの弊衣なる袈裟を抛却して、仏道正伝の袈裟を正受するなり。かの因縁、すなはち伝、広、続、普燈等の録につらなれり。教律局量の小見を解脱して、仏祖正伝の大道をたふとみし、みな仏祖となれり。いまの人も、むんしの祖師をまなぶべし。袈裟を受持すべくは、正伝の袈裟を正伝すべし、信受すべし。偽作の袈裟を受持すべからず。その正伝の袈裟といふは、いま少林・曹谿より正伝るは、こり如来より嫡嫡相承すること、一代も虧闕せざるところなり。このゆゑに、道業まさしく禀受(ぼんじゅ)仏衣したしく手にいれるによりてなり。仏道は仏道正伝に正伝す、閑人の伝得に一任せざるなり。」