「袈裟の著衣方5」「詮ずるところ、祖師方の伝える袈裟のことは、まさしく正伝をもって相承したものであるから、そのもとの様をまのあたりにみるように相伝し、受持し、相嗣いで今に及んでいるのである。だから、それを受ける人もみなまたぴたりとその身をもって法を伝える祖師であって、十聖・三賢にもすぐれた存在である。まさに仰ぎたてまつり、敬しうやまい、伏して拝するがよい。ひとたびこの仏衣正伝の導利をこの身をもって信じ受けたならば、それはそのまま仏に値いたてまつるきざしであり、仏法を学ぶ道についたのである。「この法を受くるに堪えず」ということでは悲しいことである。しかるにひとたびこの袈裟をもってこの身をおおうならば、それは「決定して菩提を成ずる」護身のお守りとなると確信してよいのである。一句・一偈を心にとどむれば、永遠に光明の欠けることがないという。いまこのことに身心を寄せるものもまたおなじであろう。人の心の思いは住まるところを知らず、わが思うままににはならないけれども、なおその功徳はかくのごとくである。人の身体もまた移ろうてとどまらないが、またそうなのである。袈裟もまた、そのよって来るところもなく、その去るところも知れず、また、また、わが有でもなく、ひとの有でもないが、その所持するところに現在し、その時時する人に力を与えて、その得るところの功徳はまたしかるであろう。(道元:正法眼蔵)
原文「おほよそ祖門の袈裟の功徳は、正伝まさしく相承せり。本様まのあたりつたはれり。受持しあひ嗣法して、いまにたえず。正受せるひと、みなこれ証契伝法の祖師なり。十聖三賢にもすぐる。奉覲恭敬(ぶごんくぎょう)し、礼拝頂戴すべし。ひとたびこの仏衣正伝の道理この身心に信受せられん。すなはち値仏の兆なり。学仏の道なり。不堪受是法ならんは悲生なるべし。この袈裟をひとたび身体におほはん、決定成菩提の護身符子なりと深肯すべし。一句一偈を信心にそめつれば、長劫の光明にして虧闕せずといふ。一法を信心にそめん、亦復如是なるべし。かの心念も無所住なり。我有にかかはれずといへども、その功徳すでにしかり。身体も無所住なりといへどもしかり。袈裟も無所従来なり。亦無所去なり。我有にあらず、他有にあらずといへども、所持のところに現在し、受持の人に加す。所得功徳もまたかくごとくなるべし。」

