坐禅の功徳3「さらにここにいたれば、十方の世界の、土地も草木も、牆壁、瓦礫も、すべてみな仏事を行ずるのであるから、そのおこす風になびき、水ずに潤されるものは、すべてみな、冥々のうちにも、仏の不思議な化にあずかって、まもなく悟りを示現するにいたる。さらにまた、その水や火を受用するものも、みなすべて、本来成仏の仏の教化を他にも伝えるのであるから、それらのものだちとともに住し、ともに語りあうものも、またことごとく、たがいにみんな限りもない仏徳をそなえるにいたる。かくして、つぎからつぎえとひろく作用して、尽きることなく、間断することなく、思議すべからざる、量るべからざる仏法をも、よくあまねき存在の世界の内外に伝わりひろましめるのである。だが、しかし、それらのもろもろの当人たちは、そんなことはすこしも気が付かない。というのは、それらのことはすべて、静かななかで、なんの人為をも加えないで、直々に悟られるものだからである。もしも凡庸なものだちの思うように、修と証とが別々のものであるならば、それぞれちゃんと気も付こうというものである。それを、もしも気が付くというものならば、それを悟りというもののありようではない。悟りのありようは人の迷情のおよばざるところなのである。また、その心とその対象とは、ともにおなじく静かななかにあっても、なお悟境をでたりはいったりはするけれども、それも、すべては自受用の境地においてすることであって、塵ひとつ動かすわけでも、、相(すがた)ひとつ変えるわけでもなく、しかも、広大なる仏のわざを実現し、深くして微妙なる化導をおこなう。そして、その化導のおよぶ草木や土地は、いずれも大いなる光明を放ち、深くして妙なる法を説いて極まるところがない。また草木や牆壁がよく生きとし生けるもののために法をとけば、また、草木や牆壁のために法をのべる。かくして、みずから覚るにも、また他を覚らしむる場合にも、もちろんぴたりと悟りの相をそなえて欠くるところがなく、またよく悟りのありようにかなうて怠るところもないのである。」(道元:正法眼蔵)
原文「このとき、十方法界の土地・そうもく・牆壁・瓦礫みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともともがら、みな甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋するゆゑに、これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとくあひたがひに 無窮の仏徳そなはり、展転広作して、無尽、無間断、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏ぜらしむることは、静中の無造作にして、直証なるをもてなり。もし凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは、証則にあらず。証則には迷情およばざるんがゆゑに。また、心・境ともに静中の証入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。この化道のおよぶところの草木・土地、ともに大光明をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。草木・牆壁はよく凡聖含霊のために宣揚し、凡聖含霊はかへって草木・牆壁のために演暢す。自覚・覚他之境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこなはれておこたるときなからしむ。」
本証とは、本来成仏である。もともと悟っているものの意か。修証の修は修行であり、証は悟るである。道元はその修と証とはその両段即ち別々の二つのものとは考えラレナイというので修証という。凡聖含霊凡は衆生の意で凡夫なると聖者なるとをとわず生きとし生ける者の意。

