坐禅の功徳4「そんな具合であるから、坐禅というものは、一人がいとなむ一時のいとなみではあるけれども、なおよくよくもろもろの存在と冥々のうちにも通い、また、あらゆる時に易々として相通ずるものであるから、尽きることのないこの存在の世界のなかにあって、常恒すなわち過去と現在と未来とににわたって、よく仏の化導のいとなみをなすのである。あれもこれも、ひとしくともに修し、ともに悟るのである。決してただ坐しているあいだだけの修行ではないのである。そのありようは、いうなれば空を打って響きをなすというものであり、あるいは、鐘をついてその前後にもなお綿々として妙なる声をきくというものであろうか。いや、それきりではない。さらに誰も彼もが、みんな本来の面目に本然の修行をそなえているのであるから、それはもう量り知り得るところではないのである。かくて、知るがよろしい。たとい十方世界の数かぎりない仏たちの力をあつめ、その仏の智慧をもって、一人の坐禅の功徳を量りきわめようとしても、とてもその傍にもよりつけないであろう。」(道元:正法眼蔵)

原文「ここをもて、わずかにに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、未来現に、常恒の仏化道事をなすなり。彼彼ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞の前後に妙声綿綿たるものなり。このきはのみにかぎらんや、百頭みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。しるべし、たとひ十方無量恆河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。」

撞は鐘をつくこと、「ほとり」とは「そば」