「読経・念仏を論ずる」「問うていう。なるほど、あるいは如来の妙術を正伝するといい、あるいは祖師たちの跡を訪ねるといい、まことに凡人の思慮のおよぶところではない。だがしかし、読経や念仏もまた、おのずから悟りの因縁となり得るであろう。それなのに、ただ空しく坐して、なんののなすところもないというのでは、いったい、なにをもって悟りを得る手立てとするのであろうか。
示していう。汝はいま、もろもろの仏の入りたもう三昧の境地たる、この最高の大いなる教えをむなしく坐してなんのなすところもないと思ったのであるが、それは大乗をそしるものというものである。その迷いの深いことは、たとえば、大海のなかにいながら、水がないというものである。すでに忝なくも、もろもろの仏たちのみずから浸っている三昧の境地に安坐しているのである。それがもうこ広大なる功徳というものではないか。可哀そうに、汝はまだ眼がひらけず、まだ心は酔うているのであろうか。いったい、もろもろの仏たちのまします境地というものは、まことに不可思議であって、人の思いのよく及び得るところではない。ましてや、信心あさく智慧おとるものの知り得るところではない。ただ、信心の正しい、すぐれた機根のもののみが、よく入ることを得るのである。信心のない人は、たとえ教えてもとても耳には入りはしない。思えば、かの霊鷲山のつどいにもなお、仏が「退くもまた佳いかな」と仰せられたような人々もあったという。そもそも、心に正しい信がきざしたならば、修行し、仏道をまなぶがよいのである。そうでなかったならば、しばらくやめておくがよろしい。ただ、むかしから一向に法のうるおいに与(あずかる)ことtがないのを恨むよりほかはあるまい。」(道元:正法眼蔵)
原文「とうていはく、あるいは野良委の妙術を正伝し、または祖師のあとをたづぬるによらん、まことに凡慮のおよぶにあらず。しかあれども、読経・念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてさとりをうるたよりならん。
しめしていはく、なんじいま諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく座してなすところなしとおもはん、これ大乗を謗する人とす。まどひいとふかき、大海のなかにゐながら水なしといはんがごとし。すでにかたじけなく、諸仏自受用三昧に安坐せり。これ広大なの功徳をむなすにあらざらんや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゐひにあることを。おほよそ諸仏の境界は不可思議なり、心識のおよぶべきにあらず、いはんや不信劣智のしることをえんや。ただ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふくともうべきことかたし。霊山になほ退亦佳矣(たいやくけい)のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば、修行し、参学すべし。しかあらずんば、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。」
退亦佳矣は「退くもまたよいかな」とよまれる。仏の法座より退く、と、これは増上慢の人は退くのがまたよかろう」の故事からとった表現。

