「また、汝は、読経や念仏をつとめることによって得る功徳というものを、知っているであろうかどうか。ただ、舌をうごかし、声をあげるだけで、それが仏事のいとなみであり、それで功徳があるのだと思ったならば、まつたくとるに足らない。それが仏法かというならば、それは仏法からはなはだ遠く、いよいよ遥かである。そもそも、経典をひもどいて読むということは、仏が頓経と漸教の修行のありようを説いておられるのを、よく研究して知り、教えのとおり修行すれば、それでかならず悟りも得られるといったものである。いたずらに思慮分別をついやして、それでもって悟りをうる功徳にしようとするのではない。ただむやみに千遍万遍の口誦をかさねて、それよって仏道にいたろうなどというのは、たとえば梶棒を北にむけて、それでもって南方越の国にむおおうと思うようなものである。あるいは、またたとえば、丸い孔に四角の木をいれようとするにおなじことである。また、文字を見ながらも、その修する道には暗いのであるから、それはちょうど、医学を学ぶものが、薬を調合することは忘れたようなもので、なんの役にもたたない。ただひまなく口から声ょだしているところは、まるで春の田の蛙が昼も夜も鳴いているようなもので、結局なんの益もにない。ましていわんや、ふかく名利に迷っている連中はなんなんそれらのことを捨てがい。それは利をむさぼる心がはなはだ深いからである。昔もすでにその例がある。いまの世だってないはずはない。もっとも憐れなことである。」(道元:正法眼蔵)
原文「又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳をなんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはんなし。仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。又、経書をひらくことは、ほとけ頓漸修行の儀則ををしへおけるをあきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。いたづらに思量念度をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。おろかに千万誦の口業をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。また、円孔に方木をいれんとせんにおなじ。文をみながら修するみちにくらき、それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん。口声をひまなくせる。春の田のかへるの昼夜になくがごとし、つひに又益なし。いはんやふかく名利にまどはさるるやから、これらのみことをすてがたし。その利貧のこころははたはだふかきゆゑに、むんしすでにありき、いまのよににんらんや。もともあはれむべし。」

