「法華・華厳・真言の諸宗を論ず」「問うていう。いまわが国に伝わっているところの天台宗や華厳宗は、いずれも大乗仏教の究極のものである。ましてや真言宗のごときは、大日如来がじきじきに金剛薩埵に説き与えたところであって、師資相承の旨あきらかである。また、その、説くところも、即心是仏(即ち心これ仏)といい、あるいは是心作仏(このこころ仏をなす)ながいながい間の修行を経ることなくして、一度坐すればたちまち五仏の悟りを成ずることができるとう。それはもう仏法の妙をきわめたものということができる。それなのに、なにの勝れたところがあればとて、彼らをさしおいてもっぱらこれをすすめるのであるか。」(道元:正法眼蔵)

原文「とうていはく、いまわが朝につたはれるところの法華宗・華厳宗、ともに大乗の究竟(究竟)なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来のしたしく金剛薩埵につたへて、師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏、是心作仏というて、多功の修行ふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ。仏法の極妙といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおいて、ひとへにこれをすすむるや。」