「示していう。知るがよろしい。仏教においては、数の優劣を論ずることなく、法の深浅を択ぶことなく、ただ修行の真偽を知るよいのである。かっては、草花や山水にひかれて仏道に入ったものもあった。あるいは、土石沙礫をにぎって仏の心印を頂戴したということもあった。ましてや、森羅万象のなかにも仏法を語る広大の文字はゆたかに存し、あるいは、微細なる塵のなかにも大いなる説法はおさめられているという。であるからして、即心即仏(すなわち心すなわち仏 )などということばも、いうなれば水のなかの月である。あるいは即坐成仏(すなわち坐すれば仏を成す)ということも、また鏡の中の影にすぎない。そのような言葉の技巧には拘らないがよろしい。それに反して、いま直証菩提(ただちに菩提を証する)の修行をすすめるのは、まさにしく仏祖より直々に伝えてきたすばらしい道を示して、ほんとうの仏教者とならしめようとするのである。」(道元:正法眼蔵)

原文「しるしていはく、知るがよい。仏家には、数の殊劣を対論することなく、法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。草華山水にひかれて仏道に流入することありき、土石沙礫(どしゃくしゃりゃく)をにぎりて仏印を稟持することあり、いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり。転大法輪また一塵にをさまれり。しかあればすなはち、即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらに又かがみのうちのかげなり。ことばのたくみにかかはるべからず。いま直証菩提の修行をすすむるに、仏祖単伝の妙道をしめして、真実の道人とならしめんとなり。」