「また知るがよろしい。われらはもともと、わが本来の面目として、最高の智慧をちゃんとわが身にそにえているのであるが、ただ、ああこれかと思いあたることができないばかりに、むやみにいろいろの考え方をおこす癖があり、それをわが身のほかの物と思うからして、いだらに大本をとり間違えることとなるのである。また、そのいろいろの考え方から甲斐もなきさまざまの所説が生まれてくる。あるいは、十二因縁といい、あるいは二十五有といい、あるいは三乗といい五乗といい、あるいは有仏といい無仏といって、その所説は尽きるところもない。だが、それらの所説をまなんで、それが仏法を修行する正しい路だと思ってはならない。そんな具合ではあるけれども、いまはまさしく仏の心印により、万事を捨て去って、ただひたすらに坐禅する時、その時はじめて、迷いだ悟りだという計らいもこえ、凡夫の聖者という分かちにも拘わらず、一挙にして規矩の束縛を脱ぎすてて、おおいなる智慧を味わうことができるのである。かの文字という方便にかかずらわるものの、とても肩をならべ得るところではないのである。」(道元:正法眼蔵)
原文「又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるらあらず、とこしにへに受用すといへども、承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおもふにより、大道いたづらに磋過す。この知見によりて、空華まちまちなり、あるいは十二輪転・二十五有の境界とおもひ、三乗・五乗・有仏無仏の見、つくることなし。この知見をならうて、仏法修行の正道とおもふべからず。しかあるを、いまはまさしく仏印によりて、万事を放下し、一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、すみやかに格外に逍遙し、大菩提を受用するなり。かの文字の筌罤(せんてい)にかかはるものの、かたをならぶるにやよばんや。」
十二輪転とは、十二因縁である。輪転とは、輪廻の意、衆生か輪廻する関係を十二支につらねたものである。二十五有の境界とは、衆生が輪廻する生死世界を二十五種に分てるものである。三乗・五乗の三乗とは声聞乗・縁覚乗・菩薩乗であり五乗とはそれに人乗・天乗を加えたもの。有仏無仏とは仏のいます世界と仏のいまさぬ世界である。筌罤とは筌は魚をとるやなで、罤は兎をとる罠。転じてたんなる手段とか方便に過ぎない。

