「四儀の一つとしての坐について」「問うていう。仏教では、なにゆえに、行・住・坐・臥の四儀をたてるなかで、ただ坐のみに関して禅定をすすめ、悟りを語るのであるか」示していう。むかしから、諸々の仏たちが、あいついで修行し、悟りをひらいてきた道は、一概にどれと定めていいがたい。しかし、その故を尋ねるならば、ただ仏者もといゆるところをもって、その故とするほかあるまい。そのほかには尋ねようもないのである。ただし、祖師もたたえて「坐禅はすなわち安楽の法門なり」といったことがある。それでも判るように、四儀ののなかにおいては坐禅がもっとも安楽だからであろうか。ましてや、それは、一仏や二仏の修行の道であったばかりではない。もろもろの仏祖がみなこの道によられたのである。」(道元:正法眼蔵)

原文「とうていはく、仏家なにによりてか四儀のなかに、ただし坐のみおほせて禅定をすすめて証をいふや。しめしていはく、むかしよりの諸仏、あひつぎて修行し証入せるみち、きはめしりがたし。ゆゑをたずぬれば、ただ仏家のもちゐるところをゆゑとしるべし、このほかにたづぬるべからず。ただし、祖師ほめていはく、坐禅はすなはち安楽の法門なり。はかりしりぬ、四儀のなかに安楽なるゆゑか。いはんや一仏二仏の修行のみちにあらず、諸仏諸祖にみなこのみちあり」

四儀とは、行・住・坐・臥の四つがぴたりと作法に適えると謂うこと。祖師ほめていはくとは、長蘆の宗賾禅師の坐禅儀に「竊為坐禅乃安楽法門」とあるをいったもの。