修証一等ということ「問うという。その坐禅の行は、まだ仏法を悟り得ない者には、なお坐禅して道を修して、その悟りを得るがよいであろう。すでに仏の正法をあきらかにすることを得た人には、もはやなんの必要があろうか。示していう。愚かなるもののまえでは、夢みを説いてはならない。やまがつの手には、舟の棹をあたえがたいというけれども、やはり教えを説く事と証。そもそも、修と証とが別のことであると思っているのは、とりもなおさず外道の考え方である。仏教では、修と証とはまったくおなじものである。いまでも証のうえの修であるから、初心の学道がそのままもとからの証のすべてである。だからして、修行の用心あたえるにも、修のほかに証を期待してはならぬと教える。この道が直指人心なのであるのは、もともと証っているからであろう。すでに修をはなれぬ証であるから証には終わりがなく、また、証をはなれぬ修であるから、修にははじめがない。そのゆえをもって、釈迦如来や迦葉尊者は、ともに証のうえの修にその境地をたのしまれ、また、達磨大師や大鑑高祖も、おなじく証のうえの修にひきまわされていた。仏祖の仏法に安住し仏法を護持されてきたあとは、みなそのようである。」(道元:正法眼蔵)
原文「とうていはく、この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものは、坐禅弁道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん。しめしていはく、癡人のまへにゆめをとかず、山子(さんす)の手には舟棹をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。そりれ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここもて、釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。」
山子とはきこり。本証とは本来証得である。ものからの悟りである。それはいつ始まったものやら、過去に初めもないのである。直指の本証とはこの道が直指人心をもって建前とするのは、もともと証っているからなのである。

