「修証一等ということ」「とすると、すでに証をはなれぬ修があるのであるから、わたしども、さいわいにしていささかこの素晴らしい修を伝うるものは、その初心の学道において、たちまちにして、いささかの証をおのずからして得るのである。知るがよろしい。この修をはなれぬ証をけがすことなからしめんがため、仏祖もしきりに修行をゆるくしてはならないと教えている。かくて、この素晴らしい修をはなてば、もとよりの証が掌のなかにあふれ、そのもとよりの証よりたちいでてみれば、かの素晴らしい修が全身におこなわれているのである。」(道元:正法眼蔵)
原文「すでに証をはなれぬ修がありわれらさいはいに一分の妙修を単伝せる、初心の弁道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ証を染汗(ぜんま)せざらんしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとわしふ。妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通信

