「杜撰の見解にたいする批判」「いったい、なにが初心だというのだ。初心ならぬものがどこにるのか。初心とはどこまでだというのか。まさに知るべきである。仏道を学ぶものの定まれる修行として、坐禅して道を修するのである。その標榜するところの主旨をいえば、仏となることを求めずしてただ仏の威儀を行ずるのである。けだし、仏の威儀を行ずるのは、けっして仏とならんがためではないのであって、それは公案として明白である。その身がすでに仏であるならばさにら仏となるの要はないのである。文字のしがらみを打ち破ってみれば、坐仏はさらに作仏する要はあるまい。まさにそこに到ってみれば、もともと仏になる力もあれば、悪魔になる力もある。進むも退くも自由自在なのである。」(道元:正法眼蔵・坐禅箴)

原文「なにかこれ初心、むいづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。しるべし、学道のさだまれる参究には、坐禅弁道するなり。その榜様(ぼうよう)の主旨は、作仏を求めざる行仏あり。行仏さらに作仏あらざるがゆゑに、公案見成なり。身仏さらに作仏にあらず。籮籠(らろう)打破すれば坐仏さらに作仏をさへず。正当恁麼のとき千古万古、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝にみち壑(たに)にみつ量あるなり。」

「榜様」榜は看板・標示ということば。したがって代表的見解とか主旨という。「溝にみち壑(たに)にみつ」溝をうめ谷をうずめて身体自由になるをいう。「籮籠」籮は鳥をとらえる網、籠は鳥かご。