「南嶽と馬祖の問答」「江西の大寂禅師は、南嶽の大慧禅師にまみえて学び、その心印を受けて輪より以来、たえず坐禅していた。するとある時、南嶽が彼を訪れて問うていった。「そなたは、坐禅して、なにごとを図るのであるか」その問いをしずかに思いめぐらして研究してみるがよい。というのは、坐禅より上になにか意図するところがあるのか、坐禅より外にべつになにか意図するところがあるのか、あるいは、なんにも意図するところがあってはならないのか。いま坐禅してどんな図を心に描いているのかと問うのである。そこを審らかに考えてみるがよいのである。彫竜を愛するよりすすみて真竜を愛すべしというが、彫竜にも、真竜にも、ともに雲をよび雨をふらせる力のあることを学ばねばならない遠きを貴しとしてはならぬ。遠きを賤しとしてはならぬ。むしろ、遠きに慣れるがよろしい。また、近きを賤しとしてはならぬ。近きを貴しとするのもいけない。むしろ、近きに習熟するがよい。目にみるところを軽んじてはいけない。目にみるところを重んじてもいけない。また、耳にきくところを重しとしてもいけない。耳にきくところを軽しとしてもいけない。むしろ耳目をして聡明ならしめるがよい。」(道元:正法眼蔵)

原文「江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐す。南嶽、あるとき大寂のところにゆきてとふ。「大徳、坐禅図箇什麼」この問、しずかに功夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図なのか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。彫竜を愛するより、すすみて真竜を愛すべし。彫竜・真竜ともに雲雨の能あること、学習すべし。遠を貴することなかれ。遠を賤することなかれ。遠に慣熟なるべし。近を賤することなかれ、近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし、目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ、耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目して聡明ならしむべし」。

「密受心印」心印とは、仏心印である。仏心とは、これかという決定的受領がなったことをいうことばである。その受領は、心と心のあいだに行われるので密受である。「図」図とは何事かを図るむ、意図することであるとともに、また絵図を描くことに通ずる。この図は心に描かれることであるから観念イメージのこととおもわれる。」「彫竜・真竜」形を模倣するより入りって、その精神を把握するの意。