「すると、南嶽はどこからか一片の塼をひろってきて、石にあてて磨きはじめた。大寂はそれをみて、問うてていった。「和尚はなにをなさるのですか」誰がみても、それは塼を磨いているのだとわかる。だが、塼を磨くの道理を知るものは誰か。しかるに、いま大寂は、塼を磨いてどうするのだと問うのである。そう問うからには、必ずや塼を磨く道理をたずぬるであろう。いったい、自己の考えるところをもって、他に考えようはないように思ってはならない。のみならず、いろいろのなす業にもいろいろと学べ きことがあると思い定めねばならない。そうしないから、仏をみても仏知らず、水をむみても水知らず、山を見ても山がわからないのだと思い知るがよい。眼前にみるところのほかにはむ、ほかに考えようはないなどと慌ただしく結論する者は、仏教をまなぶことはできにない。}(道元:正法眼蔵)
原文「南嶽、ときに一塼をとりて、石上にあててとぐ。大寂、つひにとふにいはく、「師作什麼(さもせん)」まことに、たれかこれを磨塼とみざらん、たれかこれを磨塼とみん。しかあれども、磨塼はかくのごとく作什麼と問せらりきたるなり、作什麼なるはかならず磨塼なり。此土他界ことなりといふとも、磨塼いまやまざる宗旨あるべし。自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、万般の作業に参学すべき宗旨あることを一定するなり。しるべし、仏をみるに仏知らず会せざるがごとく、水みるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。現前の法さらに通路あるべからずと倉卒なるは、仏学にあらざるなり。」

