「南嶽はいった。「人が車を御するとき、もし車が行かなかったならば、車を打つがよいか、牛を打つがよいか」しばらく、もし「車が行かなかったならば」という句につい考えてみるならば、車が行くというのはどういうことであろうか、また、車が行かないというのはどういうことであろうか。たとえば、水の流れるというのが、車の行くにあたるのか、それとも、水の流れないのが、車の行くに当たるのであろうか。流れるのは水の行ではないともいえよう。水の行は流れることではないとも考えられるからである。とするならば、「車がもし行かなかったならば」という言葉を考えてみるならば、行かないことがあるとも考えられるし、また行かないことはないとも考えうる。その時によってのことだからである。だから、もし行かなかったならばということばは、一概にそれがいけないと言っているわけではないのである。つづいて、「車を打つがよいか、牛をうつがよいか」という。車を打つこともあり、牛をうつこともあるであろう。だが、そこで、車を打つのと牛を打つのは、おなじなのであろうか、べつなのであろうか、と考えてみなければならない。すると、世間には車を打つということはないのである。凡夫には打車の法がないのに、仏道には打車の法があることが解ってくる。それが仏道を学ぶ眼目なのである。だが、仏道に打車の法があることを学んでも、それを打牛の法といっしょにしてはならない。よくよく精細に思いめぐらしてみなければならない。(道元:正法眼蔵)

原文「南嶽いはく、「如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是」しばらく車若不行といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行。たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行かなるか。流は水の不行といふべつし。水の行は流にあらざるにもあるべきなり。しかあれば、車若不行の道を参究せんには、不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし。時なるべきがゆゑに、若不行の道、ひとへに不行と道取せるにあらず。打車即是、打牛即是といふ。打車もあり、打牛もあるべきか。打車と打牛ひとしかるべきか、ひとしからざるべきか。世間には打車の法なし、凡夫に打車の法なくとも、仏道に打車の法あることをしりぬ。参学の眼目なり。たとひ打車の法あることを学すとも、打牛と一等らなるべからず。審細に功夫すべし。」

「行・不行」それは無論車の行く行かぬといっておるのであるが、それはまた同事にまた、修行の行であり、不行であることを意味している。かくて、行には是(よい)の意をかけ、不行には不是(いけない)の意をもたせている。

「打車の法」世間に打牛の法が他を責めるのに対し、仏教には己を省み、己を責め、己を整える法あるを、仏道にのみ打車の法があるというのである。古注に打車即是とは、身の結跏趺坐がそのままじゃといい、端坐坐禅を行とす」といっているのはそのことであろう。