「また、打牛の法は、世の常に行われていることではあるが、仏道における打牛のことは、さらにいろいろと訊ね学がよい。たとえば、水牛をうつのか、鉄牛を打つのかと考えてみるがよいく、あるいは、鞭をもって打つか、全世界を打つか、三界唯心の心を打つのか、わが骨髄をせめたてて打するかと問うてみるがよく、さらには、拳頭をあげて打つこともあろうし、拳と拳が火花をちらすこともあろうしむ、また牛が牛を打つということもあろう。その時、大寂は対えることがなかったというが、それをむやみに取り違えてはならない。その時、彼は、塼をなげうって玉を得たのであり、頭をめぐらしてその面のむきをかえることができたのであって、その対(こたえ)えざる意味は、誰も横から手を出して奪うことはできない。」(道元:正法眼蔵)

原文「打牛の法たとひよのつねにありとも、仏道の打牛は、さらにたづね参学すべし。水牯牛(すいこぎゅう)を打牛するか、鉄牛を打牛するか、泥牛を打牛するか、鞭打なるべきか、尽界打なるべきん、尽心打なるべきか、打併髄(たへいずい)なるべきか、拳頭(けんとう)打なるべきか、拳打拳あるべし、牛打牛あるべし。大寂無対なる、いたずらに蹉過(しゃか)すべからず、抛塼引玉あり、回頭換面あり、この無対、さらに攙奪(さんだつ)すべからず。」