「南嶽はまたいった。「そなたがもし坐仏すれはそれはとりもなおさず殺仏というものだ」さらにそのいうところは、坐仏を学びいたれば、仏そのものとなるというのである。坐仏のまさにしかる時は仏そのものなのである。仏そのものの御姿やその智慧の輝きは、いったい如何ならんと訊ねていってみると、それは坐仏のなかの何ものでもないのである。これを殺仏というのである。殺の一字は、凡夫の世界にあっては、人を殺すというこどであるが、けっしてそれと一緒にしてはならない。坐仏は殺仏であるというのは、どういうことであろうかと、よくよく研究してみるがよろしい。坐仏の功徳に殺仏ということのある道理を、よくよく心にとどめて、われらに殺人のことありやなしやと思い究めてみるがよろしい。」
原文「南嶽いはく「汝若坐仏、即殺仏」いはゆる、さらに坐仏を参究するに、殺仏の功徳あり。坐仏の正当恁麼時は殺仏なり。殺仏の相好光明はたづねんとするに、かならず坐仏なるべし。殺の言、たとひ凡夫のことばにひとしくとも、ひとへに凡夫と同ずべからず。また坐仏の殺仏なるは、有什麼形談(うそもぎょうだん)と参究すべし。仏功徳すでに殺仏なるを拈挙して、われらが殺人(さつにん)・未殺人をも参学すべし。」
「殺仏」古注に「殺仏とは逆害の殺にあらず、ただ第二人なきのみにあせず、一人に逢う一人もなきなり」とある。今までの概念としての仏は克服されてなくなることをいうのである。

