「また、仏祖の光明に照らされるというのは、この坐禅を修めまなぶことである。愚かな人々は、仏の光明というと、日月の光りのごとく、あるいは珠のひかりの輝きのようなものかと思いあやまる。日月のひかり輝くところは、わずかに衆生の住するこの世界に限られ、とても仏の光明には比べ物にはならない。仏の光明というのは、一つの句を聴いて忘れないのがそれであり、一つの教えを保ちまもるのがそれであり、4坐禅をじきじきに伝受するのがそれである。もしも仏の光明に照らされるのでなかったならばそれらを保ち続けることも、信じ受けることもできないのである。」
原文「仏祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禅を功夫参究するなり。おろかるともがらは、仏光明をあやまりて、日月の光明のごとく、珠火の光耀のごとくあらんずるとおもふ。日月光耀は、わづかに六道輪廻の業相なのり、さらに仏光明に比すべからず。仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持、坐禅を単伝するなり。光明にててらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。」
「六道輪廻の業相」六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境涯をいうことばであるが、そのいづれも、つまりは、衆生のおもむき住する世界であり、に津月の輝くのは、その世界でのいとなみにすぎないというのである。

