「彼らが知るし集めるところは、ただ本に返り源にもどるといったことであり、思慮をやめ静寂にこたろうとするのみであって、観・練・薫・修の諸段階にも劣れるもの、あるいは、十地・等覚等の境地にも及ばないものである。ましてや、仏祖の伝える坐禅を正伝したものなどとは到底いいがたい。宋朝の文献がそのようなものを記録するのは、とんだ見当違いである。後進の人々は、そのようなものは捨てて見ないがよろしい。」

原文「かれらが所集は、ただ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂(ぎょうじゃく)の経営なり。観練薫修の階級におよばず、十地等覚の見解におよばず。いかでか仏仏祖祖の坐禅を単伝せん。宋朝の録者、あやまりて録せるなり。晩学すててみるべからず。」

「還源返本」本源に帰するの意「息慮凝寂」思慮をとどめて、じっと静寂境に止まるりの意。「観練薫修」出世間禅に観することをいう。・練・薫・修の四禅有という。観は法相を観ずること、練は諸穢を除くこと、薫は種子すなわち意識下の自己を薫習すること、修は自在の境地を修得すること。「十地等覚」菩薩の修行の段階を十信・十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の五十二にわかつ。そのなかの十地と等覚とをあげているのである。その完成の一歩手前の境地の意。