「坐禅箴・宏智禅師正覚撰」「仏祖のかなめとなしたもうところは、事に触れずして知り、縁に対せずして照す。事に触れずして知るがゆえに、その知はおのずから微であり、縁に対せずして照すがゆえに、その照はおのずから妙である。その知はおのずから微であるから、まったく分別のおもいがなく、その照はおのずから妙であるから、毛筋ほどの兆もない。まったく分別のおもいがないから、その知は類いなくしてふしぎてあり、毛筋ほどの兆もないから、その照はまたく捉えることができない。水は清くして底に徹し、そこに魚が悠々として游いでいる。空はひろくして限りがなく、鳥ははるけくも飛んでゆく。この坐禅箴のしめすところは、坐禅の自由自在のはたらきを語っている。それは言葉やかたちを超えたところの作法であり、また、とおく今昔をこえたところの定則である。そこには、もはや、世間の人々のいう仏祖のすがたはなく、そこには、もはやわが身もわが心もなく、そこには、ただ見馴れぬ異形の人があるのみである。」(道元:正法眼蔵・坐禅箴)

原文坐禅箴 敕諡宏智禅師正覚撰」「仏仏要機、祖祖機要。不触事而知、不対縁而照。不触事而知、其知自微。不対縁而照、其照自妙。其知自微、曾無分別之思。其照自妙、曾無毫忽(ごうこつ)之兆。曾無分別之思、其知無偶(むぐう)而奇。曾無毫忽之兆、其照無取而了。水清徹底兮、魚行遅遅。空闊莫涯兮、鳥飛杳杳。いはゆる坐禅箴の箴は、大用現前なり。声色向上の威儀なり、父母未生の節目なり。莫謗仏祖好(もほうぶつそうこう)なり、未免喪身失命(みめんそうしんしつめい)なり。頭長三尺、頸短二寸なり。」

「要機」もっとも大事奈武心のありようという意。「毫忽」毫は細毛、忽は蚕の歯糸。「無偶」偶はたくい、対象物」「杳杳」はるか、くらい。「声色向上の威儀」声すなわちことばや、色すなわち見える姿を超越したそほう。「父母未生の節目」時間の関係をこえたこと。すなわち古今を通じなすべき定めというほどの意。{莫謗仏祖好」仏祖を謗ずる莫くんば好し読む。仏祖についていい加減なことをいってはならない。その戒めが成就しているの意。「未免喪身失」いまだ喪身失命をまぬかれず」とよむ。わが身わが心はとこかに失われてしまう。「頭長三尺、頸短」頭ながきこと三尺、頸みじかきこと二寸」とよまれる。へんなやつがいるという意か。