「また、ことに触れずして知るという。その知はむろん感覚の知ではない。感覚の知は小さな知である。叡智の智慧の知ではない。叡智の知ではない。叡智的な知は精神の能動的なはたらきである。だから、その知は事に触れないのである。事にかかわらないのがその知のありようである。だからとて、それを遍ねき知だと思ってはならないし、あるいは、それを自からの知と限定してもいけない。その事に触れずというのは、なにものにも滞ることなき、身心脱落の境地にあることに他ならない。(道元:正法眼蔵)

原文「不触事而知。知はもとより覚知にあらず、覚知は小量なり。了知の知にあらず、了知は造作なり。かるがゆゑに、知は不触事なり、不触事は知なり。遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず。その不触事といふは、明頭来明頭打(みんちょうらいみんちょうだ)、暗頭来暗頭打(あんちょうらいあんちょうだ)なり、坐破嬢生皮(ざはにゃんしゃんび)なり。」

「覚知・了知」覚知は感覚による痔であり、了知は理解による知である。感覚は受動的であるが理解は叡智の能動的なはたらきである。だから「了知は造作なり」というのである。「坐破嬢生皮」母の産んでくれた皮を坐破する、つまり端坐して身心脱落することをいう。