「さらに、その知はおのずから微であるから、まったく分別の思いがないという。思うという知のいとなみは、必ずしも他の力をかりない。その知には形がある。その形は山であり河である。その山河は微であるが、また不思議なものであって、それを用いれば活潑々地として活きた働きをなす。たとえば、竜は兎門をこえてはじめて竜となるというが、竜をえがくものは、そんなことには少しもこだわらない。そんなちょつとしたことに用いる知も、この世界のあらゆる山河を捉えきたり、力をつくして知るのである。わが知にそのような山河に直接した基礎がなかったならば、一知も半解もありえないのである。では、分析的思惟はその後に到来したのに、われらはそれに捉われているのかと嘆く必要はない。仏たちはすでに曾ては分別なされたが、いまはすでな仏となっておられる。「曾つて無し」とはいうが、「すでに曾つて」である。その「すでに曾つて」分別なされた方々が仏となっているのである。とするならば、「曾て分別の思いなし」とは 、そんな人には逢わないよというところなのであろう。」(道元:正法眼蔵)

:原文「其知自微、曾無分別之思。思の知なる。かならずしも他力をからず。其知は形なり。形は山河なり。この山河微なり。この微は妙なり。使用する活潑潑なり。竜を作するに、兎門の内外にかかはれず。いま一知わづかに使用するは、尽界山河を拈来し、尽力して知するなり。山河の親切にわが知なくば、一知半解あるべからず。分別思量のおそく到来するとなげくべからず。已曾分別なる仏仏、すでに現成しきたれり。曾無は已曾なり、已曾は現成なり。しかあればすなはち、曾無分別は不逢一人なり。」「兎門」とは龍門

「其知は形なり」知の内容は今日でいうところのイメージであることをいう。「兎門」とは竜門のこと。