「もし山之運歩を疑うならば、ひれは自己の運歩をまだ知らないのである。自己にも運歩がないわけではない。まだ自己の運歩を知らないだけである。それを明らかなしなければならない。自分の運歩を知っているなら、きっと青山の運歩を知るはずである。青山はもとより生き物であるわけでもなく、生き物でないわけでもない。自己もまた生き物であるわけでもなく、ないわけでもない。とするならば、いま青山の運歩を疑うなどとはありえないことである。いろいろの世界を基準として制させんを考えてみることをしらないからである。よくよくむ青山の運歩、ならびに自己の運歩をしらべてもるがよい。進歩のみならず、退歩も険べてみるがよい。この世界のはじめのかの時から、乃至は、まだ万物のなかったかの時から、あるいは進歩し、あるいは退歩してその運歩のしばらくも休む時のないことを点検してみるがよいのである。」
とを点検天見してみるがよいのである。」
原文「もし、山の運歩を擬著するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり。自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしらざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をしるべきなり。青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情あらず、非情にあらず。いま青山の運歩を擬著せんこと、うべからず。いく法界を量局として、青山を照鑑すべしとしらず。青山の運歩および自己の運歩、あきらかに撿点すべきなり。退歩歩退、ともに撿点あるべし。未朕兆(みちんちょう)の正当時、および空王那畔(くうおうなはん)より、進歩退歩に運歩しばらくもやまざること、撿点すべし。」
「有情・非情」有情は衆生・生類の意。生き物は情識を有するがゆえに有情と訳するのである。無情もしくは非情はその対である。「量局」量は尺度、基準の意、局はちぢこまるの意。「未朕兆の正当時」未朕兆は未だ万物のきざしもないこと、正当時はまさにその時である。

