「それぞれの見るところは、それぞれの主観と対象によるものである。それを仏祖もまたそうだと思ってはならない。それらは一隅のちいさな見解である。対象を転じて心となし、こころを転じて対象となすことは仏の呵したまうところ。心を説き、性を説くことは、仏の肯(うべな)わぬところである。心を見、性を見るなどというのは外道のいうところである。また、言にかかわり句にとどこおることは解脱にいたる道ではない。ここには、そのような境地を突き抜けたものがある。いまいうところの「青山は運歩する」というのがそれであり、「東山は水上を行く」というのがそれである。つぶさに学び究めるがよい」(道元:正法眼蔵)
原文「各々の見成は、各々の依正なり。これらを仏祖の道業とするにあらず、一隅の管見なり。転境転心は大聖の所呵なり。説心説性は仏祖の所不肯なり。見心見性はは外道の活計なり、滞言滞句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる青山常運歩なり、東山水上行なり。審細に参究すべし。」

