「そのようなたぐいの輩が、いまの宋土の諸方におおく、わたしも目のあたりに見聞したことがある。かわいそうに彼らは、思惟は言語であることを知らないのであり、言語が思惟をらぬいていることを知らないのである。わたしはかって宗にあったころ、かれらを嘲笑ったことがあるが、かれらはなにごとも言うことができず、黙っているだけであった。彼らがいう「無理会」とは一つの邪計にすぎないのである。誰がそんなことを彼らにおしえたのか。本物の師がなかったから、おのずからして外道の見解におちたのであろう。さて、「東山は水上を行く」とは、仏祖の心底であると知らねばならなぬ。もろもろの水は諸山の脚下にあらわれる。だから、諸山は雲に乗って天をあゆむのである。もろもろの水の頂きは諸山である。のぼるにも、くだるにも、その行歩はともに水上である。諸山の爪先はよくもろもろの水を踏んであるき、もろもろの水木はその足下にほとばしり出でる。かくてその運歩は縦横自在にして、もろろの事が自然にして成るのである。水は強にあらず、弱にあらず、湿にあらず、乾にあらず、動にあらず静にあらず、冷にあらず煖にあらず、有にあらず無にあらず、迷にあらず悟にあらず。凝りては金剛よりも堅くして、よく破るものなく、融けては胵りも柔らかにして、誰もこれを壊すことはできない。(道元:正法眼蔵)

原文「しるべし、東山水上行は、仏祖の骨髄なり。諸水は東山の脚下に現成せり。このゆへに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂寧は諸山なり。向上直下の行歩、ともに水上なり。諸山の脚尖、よく諸水を行歩し、諸水を趯出(てきしゅつ)せしむるゆへに、運歩七縦八横なり、修証即不無なり。水は強弱ににあらず、湿乾にあらず、動静にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融じては乳水よりもゆやはらかなり、たれかこれをやぶらん。」