「水は流るるとのみ見るべからず」「およそ山水をみるにも、類いにしたがってさまざまである。たとえば、水を瓔珞とみるものもある。だが、瓔珞が水であるとするのではない。わたしどもがああと思いこうと見るところを、彼らは水と見るのであり、彼らが瓔珞とみるところを、わたしどもは水とみるのである。また、水を妙なる花と見るものもある。だが花を水とするわけではない。鬼は水をもって、猛火となし、血うみとみるという。竜魚は水を宮殿と見、楼台とみるという。あるいは水をもって七宝・珠玉と見、あるいは樹林・牆壁と見、あるいは清浄なる法性と見、あるいは人間の真実体と見、あるいは身のすがた・心の本性とみるものもある。それを人間は水とみるのである。そこに活殺の鍵がある。もう一度いえば、類いにしたがってその見るところはさまざまである。そのことに、しばし頭を傾げてみるがよいのである。一つの対象にたいしてその見るところがさまざまであるのか、それともいろいろの現象を一つの物と錯誤しているのか。研究のうえにさらに研究をかさねてみるがよい。それとおなじように、仏道をならうということも一通りや二通りであるはずはない。究極の境地にも千差があり万別があるはずである。(道元:正法眼蔵)
原文「おほよそ、山水みること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる、水を見るに瓔珞とみるものもあり。しかあれども、瓔珞をみい゛とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、かれが水とすらん。かれが瓔珞は、われ水とみる。水を妙華とみるあり。しかあれど、花を見ずともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、濃血とみる。竜魚は宮殿とみる、楼台とみる。あるいは七宝摩尼殊とみる、あるいは樹林牆壁とみる、あるいは清浄解脱の法性とみる、あるいは真実体とみる、あるいは身相心性とみる、人間これを水とみる。殺活の因縁なり。すでに随類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。一境をみるに諸見しなじななりとやせん、諸象を一境なりと誤錯せりとやせん。功夫の頂寧にさらに功夫すべし。しかあればすなはち、修証弁道も一般両般なるべかにず、究竟の境界も種万般なるべきなり。」
「瓔珞」珠玉や金属を編んでつくった装身具であって、頭に頂くを瓔となし、身につけるを珞となす。「摩尼殊」宝樹の意。
「水は流るるとのみ見るべからずつまり「山水を見るに人間の見方にのみとどこおることなく、広大無辺の見処に立たねばならないことを説いている。」」

