「さらに、その意味をじっと考えてみると、たとい水にはいろいろの類いがあるといっても、本の水というものがあるわけではなく、また、いろいろの種類の水があるわけではない。だがしかし、類にしたがってさまざまの水を見るというのは、心によるでもなく、身によるのでもなく、業によって生ずるのでもなく、自己によるにもあらず、他己によるにもあらず、あくまで水によってである。だからして、水は地・水・火・風・空・識等でもなく、また黄・赤・黒でもなく、色・声・香・味・触・法でもないけれども、なお地・水・火・風・空などの水がおのずからに形成される。そんに具合であるから、いまの国土や宮殿も、なにものの成すところか、なにによって成れるものか、それをあきらかに語ることは難しい。空輪や風鈴にかかるというものもあるが、それは本当にそうだと思っているのではなく、ただ狭い見解をもって測ろうところを、そうであろうとするのである。どこかかかるところがなくては在りえないと思うによって、そんなことを言っておるのである。(道元:正法眼蔵)

原文「さららにこの宗旨を憶想するに、諸類の水たとひおほしといへども、本水なきがごとし、諸類の水なきがごとし。しかあれども、随類の諸水、それ心によらず、身によらず、業より生ぜず。依自にあらず、依他にあらず、依水の透脱あり。しかあれば、水は地水火風空識等にあらず、水は青黄赤白黒にあらず、色声香味触法等にあらざれども、地水火風空等の顕水おのづから現成せり。覚野ごとくなれば、而今の国土・宮殿、なにものの能成所成とあきらめいはんことかたかるべし。空輪・風輪にかかはれると道著する、わがまことにあらず、他のまことにあらず、小見の測度を擬議するなり。かかれるところなくば住すべからずとおもふによりて、この道著するなり。」