「仏いわく、「一切の諸法は、畢竟して解脱して、住するところあること無し」それによっても知られるように、自由にして繋縛されることもなく、もろもろの物は存在している。それなのに人がミス場を見るときには、ただ流れて止まらずとのみみる一途である。その流れ方にもさまざまあって、人の見るところはさの一端のみである。すなわち、地を流れ、空を流れ、上のに向かって流れ、下に向かって流れる。里にも流れ、淵にも流れる。昇っては雲をなし、下っては淵をなす。「文子」にいわく、「水の路は、天にのぼりては雨露となり、地にくだりては江河となる」いま俗間にいうところもなおこのようで或。仏祖の弟子と称する人々が、俗人よりも無知であっては、なによりも恥ずかしいことではないか。いわく、水のゆくところは水のよく知覚するところではなくとも、水は浴行動するのでありまた、水のまったく知覚せざるところでなくとも、水はよく行動するのである。」
原文「仏言、「一切諸法、畢竟解脱、無有所住」しるべし、解脱にして繋縛なしといへども、諸法住位せり。しかあるに、人間の水をみるに、流注してとどまざる途みる一途あり。その流に多般あり、これ人見の一端なり。いはゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方尼4里有痛す。一曲にも流れ、九淵にもながる。のぼりて雲をなし、くだりてふちをなす。文子いはく、「水之道、上天為雨露、下地為江河」いま俗のいふところ、なほかくのごとし。仏祖の児孫と称せんともがら、俗よりもくらからんは、もともはづー゛し。いはく、水の道は、水之所知覚にあらざれども、水よく現行す。水の不知覚にあらざれども水よく現行するなり。」

