「それだから、竜魚が水を宮殿とみるのは、人が宮殿を見るようなものであろう。けっして流れ行くものとは思えないであろう。もし傍らにあって観る者が汝の宮殿は流れる水でないかといったとしても、それは私どもが「山は流れる」ということばを聞くおなじであって、竜魚はただびっくりして目を疑うのみであろう。あるいは、さらに宮殿楼閣の欄干はこういう、円柱はこうと言い張るかもしれない。そこの道理をよくよく思い去ってみるがよい。その辺のところを突き抜けることを学ばねば、とても凡夫の身心を解脱したものとはなれない。仏祖の国土を究めつくしたものとはいえない。また凡夫の国土を究めつくしたものでもなく、凡夫の宮殿を究尽したものではない。いま人間は、海の心、河の心と、ふかく水を知っているようであるが、なお、竜魚などはどういうものを水と見、水と思っているかはまだ知らない。自分が水と思っているものを、いずれの類いのものも水として用いているであろと思ってはならない。いま仏教まなぶ人々は、水を考える場合にもひたぶるに人間の立場に固執してはならない。すすんで仏教の水の考え方をまなぶがよい。仏祖がもちいるところの水を、自分はどう考えているのか。また、仏祖の家においては、水があるかないか、そのようなことを学びいたるがよろしい。」(道元:正法眼蔵)

原文「しかあるに、竜魚の水を宮殿とみるとき、人の宮殿をみるがごとくなるべし。さらにながれゆくと知見すべからず。もし傍観ありて、なんぢが宮殿を流水なりと為説せんときは、われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、竜魚たちまちに驚疑すべきなり。さらに宮殿楼閣の欄楷露柱は、かくのごとくの説著あると保任することあらむ。この料理、しつげかにおもひきたり、おもひとゆくべし。この辺表に透脱を学せざれば、凡夫の身心を解脱せるにあらず、仏祖の国土を究尽せるにあらす、凡夫の国土を究尽せるにあらず、凡夫の宮殿を究尽せるにあらず、いま人間には、海のこころ、江のこころをふかく水と知見せりといへども、竜魚等いかなるものをもて、水と知見し、水と使用すといまだしらず。おろかにわが水と知見するを、いづれのたぐひも水にもちゐらんと認ずることなかれ。いま学仏のともがら、水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。すすみて仏道のみずを参学すべし。仏祖のもちゐるところの水は、われらこれをなとか所見すると参学すべきなり。仏祖の屋裏、また水ありや水なしや途参学すべきなり。」