「「嗣法の根本的道理」その道理の意味は、仏と仏とではなくては判らぬところである。いまだ仏位にいたらぬ修行者の量りうるちころではなく、ましてや経師や論師などの到底推し知りうるところではない。たといかれらのために説いても、彼らには判らないであろう。仏より仏へと相嗣ぐべきことであるからである。かくて仏道とは、ただと仏とのみ究め尽くすところであって、仏と仏のことならぬ時はあり得ないと知られる。たとえていうならば、石は石に相嗣ぐということであり、玉は玉に相嗣ぐということであり、あるいは、菊は菊の相嗣があり、松は松の心を相嗣ぐのであるから、すべて前の菊と後の菊とが相ひとしく、さきの松とあとの松とがぴたりと相契うということである。そのところが判らない人では、たまたま仏祖正伝の道にめぐり遇うことがあっても、これは一体どういうことであろうか。怪しむことすらありえまい。ましてや仏と仏とが相嗣ぎ、祖と祖のさとりとりが相契うなどとは、とても解ろうはずがない。それでは可哀だが、仏教者には似ていてもとうてい仏の子とはいい難いし、子なる仏とも言い得ないのである。(道元:正法眼道元)
原文「この道理の宗旨は、仏仏ににらざればあきらむべきにあらす。いはんや十地(じゅうじ)・等覚の所量ならんや、いかにいはんや経師・論師等の測度(しきたく)するところならんや。たとひ為説すとも、かれらにきくべからす゛。仏仏相嗣するがゆゑに、仏道はただ仏仏の究尽にして、仏仏にあらざる時節にあらず。たとへば、石は石に相嗣し、玉は玉に相嗣することあり、松も印証するに、みな前菊後菊如如なり、前松後松如如なるがごとし。かくのごとくなるをあきらめざるともがら、仏仏正伝の道にあふといへども、いかにある道得ならんとあやしむにおよばず、仏仏相嗣し祖祖証契すといふ領覽(りょうらん)あることなし。あはれむべし、仏種族に相似なりといへども、仏子にあらざることを、子仏にあらざることを。」
経師とは経の文によりその義を釈することに専らなるもの、論師とは、論蔵により、論義を学ことに専念する者をいう。今日の言葉で言えば、仏教の学者と思想家ということであろう。

