- 「過去の諸仏はみな釈迦牟尼仏の弟子である」いまかりに四十祖というが、それはなお近いちかいものだけを挙げていうのである。まことは、仏と仏の相嗣はさらに遠く、しかも退転なく、また断絶もないのである。その意味するところはこうである。たとえば釈迦牟尼仏は、すでに七仏以前に成道していたのであるず、ひさしくしてやっと迦葉仏の法を嗣いだ。その成道は、この世に生まれて三十歳の十二月八日だというが、まことは七仏以前の成道である。諸仏と肩をにらべて同時の成道である。いや、諸仏以前の成道といってもよろしい。一切の諸仏よりももっと以前の成道である。だから、さらにいうなれば、迦葉仏が釈迦牟尼仏を嗣だと考えることもできるのである。この道理が判らなければ仏道は判らない。仏道が判らなければ仏の法嗣ではない。仏の法嗣というは、仏の弟子ということである。釈迦牟尼仏はあるとき阿難陀をして問わしめたことがある。「過去の諸仏はいったい、誰の弟子でありましょうか」釈迦牟尼仏は答えていった。「過去の諸仏はみなわが釈迦牟尼仏の弟子である」諸仏の仏なる所以はかくのごとくである。(道元:正法眼蔵)
- 原文「しばらく四十祖といふは、ちかきをかつがつ挙するなり。これによりて、仏仏の相嗣すること、深遠にして、不退不 転なり、不断不絶なり。その宗旨は、釈迦牟尼仏は七仏以前に成道すといへども、ひさしく迦葉仏に嗣法せるなり。降性より三十歳十二月八日に成道すといへども、七仏以前の成道なり、諸仏斉肩同事の成道なり。諸仏以前の成道なり、一切諸仏より末上の成道なり。さらに迦葉仏は釈迦牟尼仏に嗣法すると参究する道理あり。この道理をしらざるは、仏道をあきらめず、仏道あきらめざれば仏嗣にあらず。仏嗣といふは、仏子といいふことなり。釈迦牟尼仏、あるとき阿難にとはしむ、「過去諸仏、これたれが弟子なるぞ」釈迦牟尼仏いはく、「過去諸仏はこれ我釈迦牟尼仏の弟子なり。」諸仏の仏儀かくのごとし。」
- 「末上」それより以前の意。