「そののち、宝慶のころ、わたしは天台山や雁蕩山へ歴遊したついでに、平田の万年寺にいたった。そのころの万年寺の住持は元鼏(げんし)和尚であった。宗鑑長老が退いたのちに鼏和尚が住持となり、法席を盛んにしていた。人物の話のついでに、昔からの仏祖の家風をいろいろと語り、大潙と仰山の嗣法のとこに及んだ時、和尚は「わしのところの嗣書をみたことがあるか」といった。わたしは「どうして見たことがありましょうか」といった。すると、和尚は、自分で起って行って、嗣書を捧げてきていった。「これは、たとい親しい人でもたとい永年侍僧をつとめる者でもみせない。それが仏祖の訓戒である。しかるに、わたしは時々都城にでて知府にお目にかかるのだが、そのように都城にあった時、一夜夢をみたことがある。大梅山の法常禅師と思われる高僧が、一枝の梅花をかざしていった。「もし海を渡ってくる本物があったならば、花を与えることを惜しんではならぬ」と、そういってわしに梅花を手渡した。わしは夢の中で、思わず「いまだ船舷(ふなばた)を跨がざるに、好し、与うるに三十棒をもってせん」と吟じた。しかるに、それからいまだ五日を経るに、いまそなたと相見えることをえた。しかも、そなたは海を渡ってきたのである。梅花の綾もおそらく此の嗣にかけたのであろう。それを大梅が教えてくれたのにちがいあるまい。びたりと夢に符号するので、これを取り出してきたのである。もしそなたが、わしの法を嗣ぎたいと思うならば、それも惜しみはしない。」わたしは感きわまって措くところをしらず、嗣書をお願いするところであっただろうが、だた焼香し、礼拝して、その嗣書を敬重し供養するのみであった。その時、焼香の侍者に法寧というものもいたが、彼もこの嗣書をはじめて見るものであった。(道元:正法眼蔵・嗣書)

原文「のちに法慶のころ、道元、台山・雁山等に雲遊するついでに、平田の万年寺にいたる。ときの住持は福州の元鼏和尚なり。宗鑑長老退院ののち、鼏和尚補す。叢席を一興せり。人事のついでに、むかしよりの仏祖の家風を往来せしむるに、大潙・仰山のの令嗣話を挙するに、長老いはく「曾看我箇裏嗣書也否」道元いはく、「いかにしてかみることをえん」長老すなはちみずからたちて、嗣書をささげていはく、「這箇はたとひ親人なりといへども、たとひ侍僧のとしをへたるといへども、これをみせしめず。これすなはち仏祖の法訓なり。しかあれども元鼏ひごろ出城し、見知府のために在城のとき、一夢を感ずるにいはく、大梅山法常禅師とおぼしき高僧ありて、梅花一枝をさしあげてはく、もしすでに船舷(をこゆる実人あらんには、花をおしむことなかれといひて、梅花をわれにあたふ。元鼏おぼえずして夢中に吟じていはく、未船舷、好与三十。しかあるに、不経五日、与老兄相見。いはんや老兄すでに船舷跨来、この嗣書また梅花の綾にかけり。大梅のおいふるところならん、夢草と符号するゆゑにとりいだすなり。老兄もしわれに嗣法せんともとむや。たとひもとむとも、おしむべきにあらず」道元、信感おくところなし。嗣書を請すべしといへども、ただ焼香礼拝して、恭敬供養するのみなり。ときに焼香侍者法寧といふあり。はじめて嗣書をみるといひき。」