慧能の教え「慧能はいった。「経の意はあきらかである。ただ汝がみずからがこの事実をつかめずおのれの常識や知識の尺度で迷っているだけである。三乗の人々が仏智を量ることをえないのは、おのれの経験や知識で仏の智慧を推測するからである。たとい彼らが力を合せ思いを尽くして推し量っても、とても及ぶところではない。仏はもともと凡夫のためにのみ説くのであって、仏のために説くのではない。その理を信ぜず肯んぜずして遁げだすのは、白牛車に坐していながら、更に門外にいでて三車をもとめるにおなじである。経のことばも明らかにいっておるではないか。「二も無く三も無し」とどうしてそれが解らないのか。三車というのは仮である。昔のことだからである。一乗というは実である。今のことだからである。ただ汝をして仮を去って実に帰せしむるのみである。実に帰したるうえは、別に実という名もいらない。あらゆるものがみな珍宝であって、ことごとく汝に属すると知るがよい。汝の思うように用うればよいのである。べつに父のものと想うこともいらない。子のものと想うこともいらない。あるいは、用いると思うことも無用である。それを法華経と名付けるのである。無限の時間から時間におよび、昼から夜へ、経巻に因われなくとも、すべて念誦ならざる時はないのである。」教示したのである。それで宗達は小躍りせんばかりに歓び師の前に偈を呈した。(道元:正法眼蔵・法華転法華)
原文「祖のいはく「経意はあきらかなり、なんぢおのずから迷背す。諸三乗人の仏智をはかることあたはざる患は、度量にあるなり。たとひかれら尽思共推すとも、うたた懸遠ならん。仏は本凡夫説のみなり、不為仏説なり。この理を信ずること不肯にして退席すとも、ことにしらず、白牛車に坐しながら、さらに門外にして三車をもとむることを。経文あきらかになんぢにむかひていふ、無二亦無三と。なんぢいかがさとらざる。三車はこれ仮なり、昔時なるがゆゑに。一乗はこれ実なり、今時なるがゆゑに。ただなんじをして仮をば去とし、実をば帰とせしむ。帰実するには、実も名にあらず。しるべし、所有はみな珍宝なり、ことごとくなんぢに属す。由汝受用なり。さらに父想ならず、また子想ならず、また用想なしといへども、これは法華経となづくるなり。劫より劫にいたり、昼より夜にいたるに、手不釈巻なれども、誦念にあらざるときなり」 法達すでに啓発をかうぶりて、誦躍歓喜して、偈を呈し賛していはく。」
大白牛車という。白牛にひかせただいなる乗り物の意であって一仏乗をゆぴさす。)三車(羊車・鹿車・牛車である。「法華経」「譬喩品」にみえる。その三車を持って三乗に喩えさきの伯牛車をもって一仏乗を説くのである。)(三乗とは、声聴乗・縁覚乗・菩薩乗をいう・そのような差別観にとらわれて仏教をを修する人々を三乗人とする。)

