「経を誦すること三千部 いま曽谿の一句をわする いまだ出世の旨を明めずんば いずくぞ累生の狂をやめん 羊・鹿・牛はかりに設くるも 初・中・後の善はあらわる 誰か知らん火宅のうち もとこれ法中の王なることを」法達がその偈を呈すると、慧能はいった。「汝は今よりのち、念経僧と名づけるがよい」法達禅師が曽谿慧能に参じた経緯はこのようであった。それより以来、「心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ずる」という語句による禅匠の提唱や説法は、六祖以前におこなわれたことは知らない。真に仏の智慧を明めることことは必ず仏の説かれた唯一無上の正法の本質をつかんでいる仏祖によらなければならない。むやみに沙や石をかぞえるような文字の学者の、とうてい知るべきところではない。それはいま、宝達の以前のふるまいをみても判るであろう。法華の正しい意味を知ろうとならば、この慧能の開示する教説を唯一の大事な手がかりとして究めるのがよい。余宗を訪れて問うの要はない。いまいうがごとき、法華の転ずる実相・実性・実体・実力・実因・実果のあるがままのすがたは、この祖師より以前には、中国においてはまったく聞くかざるところ。いまだ説いた者はなかったのである。(道元:正法眼蔵・法華転法華)

原文「経誦三千部 曹谿一句亡 未明出世旨 寧歇累生狂 羊鹿牛権設 初中後善揚 誰知火宅内 元是法中王」この偈を呈するに、祖いはく、なんぢいまよりは念経僧となづけべし。法達禅師の曹谿に参じし因縁、かくのごとし。これより法華転と転法華との法華は開演するなり。それよりさきはきかず。まことに仏之知見をあきらめなことは、かならず正法眼蔵ならん、仏祖なるべし。いたづらに沙石をかぞふる文字の学者はしるべきにあらずといふこと、いまこの法達の従来にてもみるべし。法華の正宗をあきらめんことは、祖師の開示を唯一大事因縁と究尽すべし、余剰にとぶらはんとすることなかれ。いま法華宗の実相・実性・実体・実力、実因・実果の如是なる、祖師より以前には、震旦国にいまだきかざるところ、いまだあらざるところなり。」