- 霊山の仏が塔の中へ入るには、すべての霊山のすがたがそのままにして入るのである。塔中の仏が霊山にくだるには、古仏の仏土において久しき昔に滅度したまえるその姿のままくだる。下るも入るも、凡夫や小乗のやからにならって考えてはならない。ただ、転法華と学ぶべし。久しき昔の滅土というは、、ただ仏上にそなわる証飾のみである。塔中といい、仏前といい、法塔といい、虚空というは、霊山でもなく法界でもなく、その半分でもなく、その全部でもない。それはただ法のありように関わるものであって人間の思量分別の及ぶところではない。ある時には、仏身を現じて法を説きたまい、またある時には、人間の姿をもって法を説く場面もある。ある時にはまた、提婆達多を引いて語る場面かあり、あるいは、増上慢の人々がそろって退席するという舞台もある。さらには、一心に合掌し仏顔を仰ぎ見て待つこと久しいという舞台もあるが、それも必ずしも六十小劫などと計算してはならない。心に待つ時間の尺度をはかって、かりに無量劫などというけれども、まことは仏智は測ることができないのである。待つという一心を仏智でいえばどのくらいかなど、とてもいえるものではない。このような転法華のことは、ただ菩薩行道程のこととのみと思ってはならない。法華経を説きたもうた一座においても「今日如来は大乗を説く」とあることである。われらは自分もまた法華であることを知らないけれども、それはまだ気が付かないだけのことである。ただ仏顔よりこれを見れば、五百塵点劫(じんてんごう)の説法もただほんの毛ばかりの転法華であるという。では、赤心片々してただ如来寿量の開演競せられる中にあるのだと承知するがよいのである。。(道元:正法眼蔵・法華転法華)
- 原文「霊山のほとけ、塔中へ証入するには、すなはち霊山の依正ながら、転法華入するなり。塔中のほとけ、霊山に涌出するには、古仏土ながら、久滅度ながら、涌出するなり。涌出も転入も凡夫二乗にならはざれ、転法華を学すべし。久滅度は、仏上にそなはれる証荘厳なり。塔中と仏前と、宝塔と虚空と、霊山にあらず、法界にあらず、半段にあらず、全界にあらず。是法位のみにかかはれず、非思量なるのみなり。或現仏身、而為説法、或現此身、而為説法なる転法華あり。或現提婆達多なる転法華あり、或現退亦佳矣なる転法華あり。合掌瞻仰(せんごう)待、かならず六十小劫とはかることなかれ。一心待の量をつづめて、しばらくいく無量劫といふも、なほこれ不能測仏智なり。待なる一心、いく仏智と量とかせん。この転法華は、本行菩薩道のみなりと認ずることなかれ。法華一座のところ。、今日如来説大乗と転法華にる功徳なり。法華のいまし法華なる、不覚不知なれども、不識不会なり。しかあれば、五百塵点はしばらく一毛許の転法華なり、赤心片々の仏寿の開演せらるるなり。