「心不可得(しんふかとく)」釈尊はいわれた。「過去における心は捉える事ができない。現在における心は捉える事ができない。未来における心は捉えることができない。」これが仏祖の学び究めたところである。人は不可得なるもののなかに、過去・現在・未来という窟(あな)を剔(えぐ)ってきたのである。だがそれは自分の窟というものである。その自分というものは心不可得である。いまの思量分別も心不可得である。二六時中の全身がことごとく心不可得である。釈尊以来の諸仏はこの心の参究のため、身命をかけて参禅修行によって究明し、心不可得の道理を究めてきたのである。もし、この仏祖による参禅修行がおこなわれなかったなら、問うこともなく、語ることもなくまた知ることもなかったのである。それは、経師・論師のやからや、小乗のたぐいなどの、夢にもいまだ見ざるところである。(道元:正法眼蔵・心不可得)
- 原本「釈迦牟尼仏言、「過去心不可得 現在心不可得 未来心不可得」これ仏祖の参究なり。不可得裏に籠・現在・未来の窟籠を剜来(えんらい)せり。しかれども、自家の窟籠(くつろう)をもちゐきたれり。いはゆる自家といふは、心不可得なり。而今(にこん)の思量分別は、心不可得なり。使得十二時の渾身、これ不可得なり。仏祖の入室よりこのかた、心不可得を会取す。いまだ仏祖の入室あらざれば、心不可得の門取なし、道著なし、見聞せざるなり。経師・論師(きょうじ・ろんじ)のやから、声聞・縁覚のたぐい、夢也未見在(むやみけんざい)なり。その験ちかきにあり。
- 「窟籠」獣の窟ととりの籠である。人がその中から脱けかねている固定概念をゆびさしている「剜来」剜はえぐるの意。「経師・論師」境や論について依文義釈のことのみなる僧をいう。」「声聞・縁覚」小乗の徒というほどの意。声聞とは仏の言教を聞いて聖者の境地にいたる者であり、縁覚とは、因縁を観察して迷いを断ち、理を証しする者をいうことばである。

