それなのに村人の考え方暮らし方没入したのでは、頑迷にして世俗の人でも笑いそうなことがおおく、ましてや、仏法のことはいうも愚かであろう。また、女人あるいは姉や姑などが仏法の師僧となっても、そんなものは拝まれないと考えるものもあろうが、それは学ばないから知らないのであって、畜生にちかく、仏祖には遠いのである。ひたすらに仏法に身心を投げ入れようと、深く心に期するところがあれば、仏法はかならずその人に憐れみをあたえるはずである。愚かなこの世の人でさえ、なお誠の心を感ずるものである。諸仏の位にあるものが、どうして至誠に感心する心がなかろうか。土石・砂礫にも誠を感ずる心はあるものである。(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)

原文「しかあるに、村人の身心に沈溺せらんは、かたくなにして、世俗にもわらひぬべきことおほし。いはんや、仏法には、いふにあたらず。また女人および姉姑等の、伝法の師僧を拝不是ならんと擬するもありぬべし。これはしることなく、学せざるゆゑに、畜生にはちかく、仏祖にはとほきなり。一向に仏法に身心を投ぜんことをふかくたくはふるこころとせるは、仏法かならず人をあはれむことあるなり。おろかなる人天なほまことを感ずるおもひあり、諸仏の正法いかでかまことに感応するあはれみなからん。土石砂礫にも、誠感の至神はあるなり。」