「古仏はいう、「無間業(むけんごう)を招かざることを得んと欲せば如来の正法輪を謗ずることなかれ」と。このことばをふかく骨髄に銘ずるがよい。身心に銘ずるがよい。空に銘ずるがよく、地に銘ずるがよい。それはすでに、樹に刻み石に刻み、あるいは野に説き里に説いて経としてのこされてある。おおよそ山は国々に属しているけれども、まことに山を愛する人に属するものである。山はかならず主を求める。その時、高徳の賢人・聖人が山に入るのである。聖者・賢人が山に住むときには、山はその人に属するから、樹も石もさかえ、鳥も獣もうるわしい。それは聖賢の徳を蒙るからなのである。それが山の聖をこのみ賢を愛する証である。また、帝王がしばしば山に赴いて賢人を拝し、聖者を訪ねるというのも、古来からの習わしである。その時には、師に対する礼をもって敬意を表し、民間の定めに準ずることはない。たとい帝王の徳化のおよぶところであっても、けっしてして山住の聖賢を強いるようなことはない。山が人間社会をはなれたものであることが知られるであろう。かって中国においては、黄帝が崆峒山にすむ仙人広成子を訪れ、膝行し叩頭して問うたということもある。」

原文「古仏いはく、「欲得不招無間業、莫謗如来成法輪(よくとくふしょうむけんごう、もほうにょらいしょうぼうりん)この道を皮肉骨髄に銘すべし、身心依正(しんしんえしょう)に銘ずべし。空に銘ずべし、色に銘 ずべし。若樹若石(にゃくじゆにゃくせき)に銘ぜり、若田若里に銘ぜり。おほよそ山は国界に属せりといへども、山を愛する人に属するなり。山かならず主を愛するとき、聖賢高徳やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに属するがゆへに、樹石鬱茂(うつも)なり、禽獣霊秀なり。これ聖賢の徳をかうぶらしむるゆへなり。しるべし、山は賢をこのむ実あり、聖をこのむ実あり。帝者おほくやまに幸して賢人を拝し、大聖を拝問するは、古今の勝躅(しようちょく)なり。このとき、師礼をもてうやまふ民間の法に準ずることなし、聖化のおよぶところまたく山賢を強為することなし。山の人間をはなれたること、しりぬべし。崆峒華封(こうどうかほう)のそのかみ、黄帝これを拝請するに、膝行して、叩頭して広成にとふしなり。」

「身心依正」身心は先業によって受け、この世界によって生かされているのである。「若樹若石」えたる教えを樹や石にきざんで遺したという故事をいい、若田若里とは経の教えを野や里に説いたという故事。