「法を尊重すべきである。」また宋国において居士というのは、いまだ出家せざる人々であって、庵居して夫婦の生活をいとなんでいるものもあり、また独身にして不犯なるもあるが、なお煩悩しげしというところである。だが、彼らにして道をあらむるところがあれば、出家の僧たちが集まって、礼拝して教えを乞うさまは、あたかも出家の師匠と同じである。たとい、女人てあっても、畜生であっても、またおなじでなければにならない。たとい百歳の老比丘であろうとも、もしも仏法の道理は夢にも知らぬというようならば、得法の男女には及ぶべくもなく、また敬うべきでもない。ただ主客の礼のみでよい。それに反して、仏法を修行しきたって仏法を語りうるならば、たとい七歳の女人であろうとも、よく四衆の導師であり、衆生の慈父なのである。たとえば,龍女の成仏などがそれであって、それを供養し尊敬することは、諸仏や如来とおなじでなくてはならない。それがつまり仏道の古いしきたりというものである。それ伝承しない者は可哀そうなことである。(道元:正法眼蔵・礼拝得髄)
「また宋朝に居士といふは、未出家の士夫なり。庵居して夫婦そなはれるもあり、また孤独潔白なるもあり、なお塵老稠林(りんどうちゅうりん)といひぬべし。しかあれども、あきらむるところあるは、雲衲霞袂(うんのうかべい)あつまりて礼拝請益すること、出家の宗匠におなじ。たとひ女人なりとも、畜生なりとも、またしかあるべし。仏法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず。うやまふべからず、ただ賓主の礼のみなり。仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり。衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬(くようくぎょう)せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。これすなはち仏道の古儀なり。しらず、単伝せざらんは、あはれむべし。」